himetanbeamのブログ

乃木坂46のエース中元日芽香について考える

私の思考

久しぶりの更新です。

2018年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

去年の年末から新年にかけて、何か落ちつかない日々でした。

それは12月31日をもって「ひめーる」が更新されなくなってしまうことが恐怖で恐怖で仕方なかったからだ。

神宮ライブ、卒業発表、最後の握手会、最後のアンダーライブ、東京ドームでの単独公演、そしてラジラー最終回と私は、全て接点を持ちリアルで体感していて、別れの段階を知っていながら、惜別の思いにかられるのはそれだけ中元日芽香に虜になっていた自分そのものを示している。

 

中元は最後の更新となった公式ブログで「アイドルについて語ろうと思えばいくらでも語れる」と仰ったが、中元を推してきた観客の私(中元)からすると「中元 日芽香について語ろうと思えばいくらでも語れる」と言える。

はっきし言って、大学三年生の僕からすると、なんか知らねー自己分析やら学生時代に頑張ったこととか自分のこと語れとか言っても語ることなんか、まともに俺はできねー。そしてそれが今求められているんだがな。

たった400字の自己PRは俺にとって苦痛だけれども、ひめたんについて400字で書けと言われたらいくらでもかける。

ひめたんについて語れとなると俺のタイピングはよく進む。。本当に不思議だ。

 

中元日芽香はアイドル活動に対して「寝る間惜しかった」というが、私は寝る間を惜しんで真剣に、「俺は中元日芽香なんじゃないか?」と考えたこともあった。

それを立証する出来事を紹介する。

ひめたんはモバメで「アンダー」という楽曲に対して自分自身に一つの問いを出した。

「あなたの人生はどこにあるの?」(アンダーという歌詞の一部)と

九州ライブ福岡を通して私は真剣に考えた。

私は九州ライブのその日の夜ネットカフェで横になりながら、答えを出したのだ。

「乃木坂46にある」と、、、、

そして数日後、ひめーるには正解が送られてきた。

答えは「ここ、乃木坂46にある」であった。

見事に一致していた。

この時、私の主体は完全に中元日芽香と一致していたと言える。

中元のガチキチファンという主体で考えたなら私の答えは「中元日芽香にある」だったと思う。

しかし、私はこの時、「乃木坂46にある」と答えた。

これは私の思考の主体が中元日芽香であること科学的に立証したということになる。

ちなみに、私が福岡で唯一食べたラーメンは、福岡でひめたんがツアー中食べたと報告したラーメンと一致していた。

 

そして、最終的には気がつくと、ラジラー最終回の日、私と中元は同じ場所にいた。

渋谷を舞台に。

この日私は、初めてアイデンティティーを喪失することとなった。

ラジラー最終回の収録終わり、NHKの前で最後にひめたんを一目でも見ようと試みた。

3つほど入り口があり、私は西出口から出てくると直感的に感じていた。

この直感は中元日芽香と同じ直感なので、外れるはずはなかった。

しかし、いつになってもひめたんは出てこない。。。

3時間は寒い中出待ちした。しかし結果は、一目も見れずであった。

この日は初めて、自分の思考が中元日芽香同じではないのかと疑ったのだ。

さらに12月31日のひめーるには、ひめたんが日本のパスポートを片手に持つ一枚の写真が添付されていた。

私の思考=中元日芽香であるならば、どこにこれから行くのか分かるのは自明である。

しかし、いくら考えても答えは分からないのである。

「なぜだろう、なんで?!あれだけ研ぎ澄まされていた中元日芽香の感覚が消えている」と、、、、、、

そして、私は今どうしてか気づいた。

私の思考=中元日芽香の思考ではない。

「私の思考=アイドルとしての中元日芽香の思考」なのだ。

ラジラー収録後のひめたんはアイドルではないし、これから旅行に行くひめたんもアイドルではない。私は腑に落ちた。

 

ひめたんはもうこの瞬間アイドルでは無い。これから何も私の思考は新たに生産されることはないのだ。

 

私は今後、何も成長しない。

 

だから私はこれから、過去6年半のアイドル中元日芽香の思考の中を行き来きし続ける。

 

たった6歳と半年の思考。

けれども、私の青春と思い出がギュッと詰まった純情で、儚い思考なのです。

 

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